「殻」の中から

 

 自分は自分という殻の中から、すべてのものを見ている。殻というのは頭蓋骨と言ってもいい。その殻の目にあたる部分から、のぞき見るようにすべてを見ている、そういう意味だ。他の人の殻の中から見たら、この世はどう映るのだろう。たとえば赤という色だって自分が今感じている赤と他の人の感じている赤とは同じ色なんだろうか?

 昔からこういったことを時々考える。自分は自分という殻の中にいつも入っている。つまり自分の中に映画撮影用のスタッフが全部入っているようなものだ。カメラマン、演出、監督は自分。自分が見たいものを見て(ときには見たくないものも見せられて)ロケ(旅行)にでたり、カメラのアングルをかえたり(ベッドに寝転がったり、高層ビルの展望台に行ったり)しているわけだ。

 で、死ぬってことで、この撮影チームが一瞬にして解散、なかったことになるわけだ。壮大でいじらしいムービーの完結、すなわち自分という殻の完結。二度とその映画が見られないから、死は哀しく、怖いのだ。では、死んだら自分という殻から初めて抜け出して、安直なイメージだけれど空なんか低空飛行しながらこの世の中を眺められるんだろうか?うんにゃ、それもやっぱり視点という点では、自分の殻から見ているのと変わらないような気がする。物質的な殻(体)はもうないにしても。 

 つまり、見るという行為はどこまでいっても自分ありきで、自分以外の視点をもつことはできないのだ。ずいぶんあたりまえのことを言ってるが。もちろん、見る行為だけではない、五感すべて、考えること自体もそう、ぜんぶ自分の殻の中でもって処理している。人はみな、殻の中にかくれながら外界を見て、音を聞いたり、匂いを嗅いだり、なんやかんや思っているのだ。幽体離脱の名人なら殻から出られるのだろうが、はたして瞑想のはてに、目という殻を必要とせず、視覚だけを殻の外に持ち出して自分を斜め上あたりから観るようなことが修行によってできるのだろうか?それって、実は想像力の修行ではないのか?
 
 話がずれたが、冒頭の疑問「自分にとっての赤は、他の人の感じる赤と同じか」、の解決は今のところ無理のようだ。今のところ、というのは、将来、頭蓋骨とその中身ごと移植する技術が生まれるかもしれないから。

 というようなラチのあかない(ラチとは柵のことらしい。今辞書で調べた)ことを考えるのもそ少しの時間だったら楽しいが、考えすぎたら苦痛になるだろう。ある限界まで考えたらとっとと諦めてコーヒーすすったりしているのが人間というもの。それが人間のいいところ。
 
 つまり、いずれにせよ、もっとも理不尽な他人に向かっての発言とはこういうものだ。
「自分の殻に閉じこもるな!」
それは死ね、というのと同義。