車中にて

 

 学生時代、中三の受験生男子の家庭教師を一年間したことがある。週一で夜七時に行くと、その男子は、いつも頭髪爆発状態、爆睡から目覚めたての人特有の世捨て人感を全身に漂わせていた。ぼーっと着席する子の横に座り、英作文問題を出す。まずは基本問題と「私は幸せです、は?」と聞くと、「アイアム、アイアム・・・」とつっかえてハッピーがなかなかでてこない。「なんとかニューイヤーって言うでしょ?」と助け舟をだすと、その子はハッとし、我得たりと、若干胸をはってこう答えた。「アイアム、ハッピーニューイヤー!」。

 ほんまにお目出度い奴でねぇ、と当時の通学バスで立って揺られながら友人にこの話をしたところ、直近の座席に座っていた見知らぬおじさんが、声はださなかったが、すごく幸せそうに笑っていた。僕は、それを見て、なにかこううれしい気持ちになったのを今でもよく憶えている。


 時は流れ、先日、沖縄仕事の帰り、タクシー車内でのこと。前席に潤子さん事務所S社長、後部席にピアノ弾きT氏と僕が座って車は那覇空港へ向かい走っていた。最近母が足腰を痛めて介護が必要になるかもなんです、という僕の話から、介護保険ランクとかの話題にひとしきりなったあと、S社長はご自身のお母さんのことを語りだした。なんでも数年前ボケが始まって、もうこれは手に負えないと介護付きの病院に入院することになったそう。ところが入院した二人部屋の先住者であるルームメイトが、お母さんをはるかに上回るボケぶりで、勝手に人のタンスにものを入れだしたりした。それで、お母さんはとてもお怒りになったらしい。前席から後部座席のわれわれに身をよじって、「で結局、それでボケが治ってすぐ退院したんだよ」と社長が言ったとき、僕たちは弾かれたように笑ったが、社長のすぐ横の沖縄らしからぬ色白の実直そうな運転手のおじさんも笑っていた。実に幸せそうに。その横顔を、左後方から見ながら僕は学生のときのバスのとき同様、またまたすごくうれしい気持ちになった。幸せだなぁ平和だなぁ、そういう気持ち。打算なく自然にこぼれる笑顔の美しいことよ。それもちょっと淋しげな人の。雨がちだった沖縄4デイズだったけれど、雨上がりのような実にすがすがしい気分で、帰途についたのだった。