殿様の茶碗とギターの話

 国語の時間が好きだった。教科書に載ってた様々な話しはなかなかおもしろく、勉強というより、子供ながら人生訓のようにとらえていた。その中でも、よく憶えているのは小学校低学年のときのこういう話。ある男の子が学校から帰ると、「今日のごはんはライスカレーにしてください」と書いた手紙を紙ヒコーキにして、夕飯支度中のお母さんめがけて二階から投げる(この家は吹き抜けか?)。お母さんはそれを見て、「今日はもう他のを支度をしてるから、また別の日にね」とにっこり応える、といった内容。まずは母親に宛てての手紙が敬語ということに驚愕。上品そうな親子像が浮かび、さらにカレーライスと言わずライスカレーとひっくりかえして言うだけで、なんとも美味しそうに思えることも新発見。当時、うちの母親が作るカレーライスはあまり美味しくなく(基本しゃばしゃばなのだ)、こういう上品なお母さんが作る「ライスカレー」はいかほどまでに美味しいのかと想像は膨らみ腹が鳴った。うちに帰って同じように紙ヒコーキでアピールしようかと思いつつ結局しなかった、というよりできなかった。平屋だったので。

 そして、同じく国語の教科書に出てきた本題の「殿様のちゃわん」というこんな話。殿様がなにかの褒美を遣わそうと、ある町人を屋敷に招く。そこで殿様は、名のある職人が焼いた透き通るように薄手の茶碗を町人に見せ、それに茶をいれて町人にふるまった。その茶碗はとてもとても高価なものだという。町人はうやうやしくその茶碗を手のひらに持ち、熱々のお茶をすすったが、なにせ超薄手ときているから、手のひらが火傷しそうに熱く、がまんして茶をすすったが、味など味わう余裕などまるでなかった。そうして、町人は家に帰ってから、いつもの厚手で素朴な茶碗で、ゆっくり湯をのみ、「ああ、なんの変哲もない安物の茶碗だけど、やっぱり私にはこの茶碗が一番いい」とつぶやく、という話。 小4くらいのときに、教科書で読んだこの話からその後の人生の基本となる以下のことを学んだ。
■実用的なものが一番、ということ。
■見栄えのいいものがいいとは限らない、ということ。

この習得により、僕は身軽が一番実用的という観点から、重いものは反射的に避けている。何も入ってないカバンなのにすでにかなりの重量とはどういうわけだ、と思う。重厚な貴金属を使った腕時計をはめ、だるい腕持ち上げて時間を毎度確認するのはどういうわけだ、と思う。しかし靴はリ○ガルをかっこいいからと思って買ってしばらく履いてみたが、やはり鉛の靴のように重い。足をひきずりながら「殿様の茶碗」の教訓を改めて確認したのだった。最近では、クロスバイク(自転車)がめっぽう軽いのでたいへん気に入っている。

 で、ギターである。
とてつもなく重い楽器にギブソンのレスポールというのがある。木製なのだが、長らく鉄で出来てると思ってた。それくらい重い。で、何かの迷いで(正確には離婚時のやけくそ状態)でレスポールを購入したことがある。ヒストリックコレクションというやつで、寅目のボディがかっこよかった。といっても、僕には殿様の茶碗で学んだ基本思想があるから、けしてかっこいいから購入したわけではない。極太のネックがとても弾きごたえがありジャジィなプレイが出来ると思ったからだ。しかし、結局2度くらいしかステージで弾かず手放した。理由はやはり重かったから、に尽きる。
楽器はたくさん弾きたい。それには気軽に持てるのがいい。重いギターは持とうとするだけで、よっこいしょという感じになる。ひょいと持てるのがいい。ストラトタイプのアルダー材のものなんかはとても軽くていい。
ただ今使ってる楽器でギブソンの335というのがある。これがやはり重い。しかし、レスポールよりはかなり心的に惹かれるものがあり手放せない。なので、少しでも重量を減らすべく、ピックカードという部品をはずして使っている。今日もリハーサルで使い、ああ重いと思った。でも、スタンドにたてかけてあるだけで、愛い奴と思える。そして、しっくり弾けて、よい音だね、と言ってもらえたら、それだけで幸せな気分になれるのだ。だから335に関しては教訓から除外。と言いつつ、軽くて音のいい335があったらそっちのほうがいいけど。

(10.9.12)

 

追記

ある方から、「殿様のちゃわん」はそんな話ではありません、と指摘をいただきました。正しくは、「いつも最高級な薄手の茶碗を、手が熱い苦痛を感じながら使っていた殿様が、とある機会に農民の素朴な茶碗を使う機会があり、少しも熱く感じない使いやすさに感心した」という内容。

数十年の歳月を経て、農民不在かつ町人目線の話に自己内で変貌してたのでした。失礼しました!