砂丘と植田正治と立山と

 

 鳥取砂丘に行ってみたいとずっと思っていた。日常ばなれした雰囲気があるのではないかと思って。そして、数年前の夏、鳥取に演奏の仕事で行ったとき、オフ時間があったので、ここぞとばかり自転車を借りて行ってみた。市内から砂丘までは15キロくらいあったろうか、かなり急な坂を登っては下りまた登り、へろへろになってまだ着かんのかと思ったころ、いきなり砂丘は現れた。

 砂丘の第一印象は「これは広大なスタジオのようだ」だった。その日は快晴で、陽が天上からかっと照り付けている。それはスタジオのライトのように砂丘に点在する観光客の一人ひとりをくっきりはっきり照らしている。人の輪郭がとても鮮明だ。帽子やカバンの色までもくっきり浮かびあがり、その帽子を押さえ、前かがみになって歩くおばさんの姿がよく見てとれる。砂丘の入り口から海に向かって、かなりの距離があるのだが、近くにいる人から、はるか遠くにいる人までがやたらくっきり見えるので、不思議な遠近感があった。人々はゆっくり歩いて移動しているはずなのだが、砂丘にぽつぽつ置かれたようミニチュアみたく静止して見えた。こういう人が点在する感じが僕は好きだ。それぞれがそれぞれで、といった風情がある。人が密集した場所ではこうはいかない。人の間には空間が必要なのだ。

 この砂丘で写真を撮りまくった写真家がいる。植田正治。砂丘に子供や大人が点在する。ときにシュール、ときにスタイリッシュなモノクロの世界。それは葉祥明の絵にも似てひどく静か。和みと狂喜が紙一重で交錯する静寂の世界。写真の中で微笑む人物は、生きているようで死んでいるような、平べったいような、限りない奥行きがあるような。モノクロの植田の写真を思い、自然な色にあふれる目の前の風景を見ていると、この世の「あっち」と「こっち」の裏表を感じた。

 この鳥取の仕事の続きでは、大山にも行った。おりからの強風にソフトクリームの頭を吹き飛ばされたのが大山の一番の思い出。そこから岡山に向かう途中で植田正治写真美術館を田んぼの中に発見、思いがけず観賞出来たのはたいへんにラッキーだった。

 そしてこの夏、立山での仕事があり、地元の方に案内していただき登山する機会があった。美女平からケーブルとバスで室堂へ。そこから登山道に出た瞬間、空気が澄んでいるのが明らかに分かった。大分登って、登り来た道を見下ろすと、登山客が大自然の中に点在している。瞬時に鳥取砂丘のようだ、と思った。自然の中の広大なスタジオ、これは好きな感じ、と心の中でニコニコして登った。浄土山山頂では雷鳥にも遭遇、名前のイメージではもっと勇ましい鷹系の鳥かと想像していたが、さにあらず、鳩系の大人しい家族連れの鳥でありました。 (09.9.26)