「ともだちの歌」と音楽の授業

 

「意外だったなぁ・・・」
平塚のチャペルでのコンサートが終わってひと息ついてると、潤子さんがぼそりこう言った。
この日はPPMのメドレーを演奏したのだが、その前振りとして、PPMをきっかけにバンドを始めた潤子さんがお客さんに「音楽をやってらっしゃった方はどのくらいおられますか?」と尋ねたところ、ひとりふたりくらいしか手があがらなかったことについての感想である。これに対し、ゴルゴ13似の舞台監督が「そんなもんでしょ、みんなバンドなんてそうそうやらないでしょ。楽器やるったって音楽の授業くらいでしょ」と発言、それに対し、潤子さんは「そうか、でもミュージシャンて案外音楽の授業きらいな人多いよね」と話がちょっと違うほうに飛んだ。

帰途、このやりとりを車を運転しながら反芻し、「音楽の授業、好きだったな」と遠くを見る気持ちで思った。音楽の授業というと、まずは小学4年のときに出逢った曲「ともだちの歌」のことを思い出す。歌詞はこんな。


♪あの年の夏の海で~僕らは知り合ったのさ~燃えるような太陽が~ふたりを友達にした~青い海白い砂浜、空は澄みわたり~僕らは瞳を輝かせ、沢山の話をした~
いつの日も朗らかに元気よく歌おう~離れていても心はひとつ、僕らはいつも仲間さ~♪ と、これが一番。二番では喧嘩したけど仲直りして握手したりする。


子供ごころに「おっ、ポップやねぇ!」と思った。その理由として、2ビートの軽快な曲であること、「いつの日も~」のところを「い~つ~」と思い切りひっぱっておいて「の~」からまたビートにのるところになんとも言えぬカタルシスを感じた、というのがあるが、なによりも「♪知り合ったのさ~」の「さ~」の部分のコードをメジャー7thで先生が弾いたことが食いついた最大の理由だ。僕は幼少のころからメジャー7thのコード感が異常に好きで、富田勲作曲のアニメテーマ曲やNHK番組のテーマソングの中にさりげなく入るそれに反応し、その延長線で赤い鳥を猛烈に好きになったりしたのだ。

とにかくこの歌を夏の音楽室でクラスのみんなと一緒に歌ったときの高揚感は、もはやだいぶ心身ともにひねてしまった今でもそのかけらくらいは思い出す。ありし青年の日、オッサンとなったとある日、夏の太陽の下では、この曲が時々心で鳴ったりもしており、私の夏の一曲、なのだ。ネットでこの歌を調べてみると、原曲はノヴィコフ 作曲の「泉のほとり」という曲らしい。「一週間」だの「トロイカ」だの、ロシア唱歌はひたすらポップなのだ。

その後、音楽の授業というと、中学では、痩身の女性音楽教師の趣味だったのだろう、やたら北朝鮮の歌を歌わされた。青臭い中学生たちが「平城~われらの~行く手見守る~♪」なんて声をはりあげていたのだから今思うと奇妙だ。あまりにこんな曲ばっかりなので、生徒の間からは不満の声もあがったが、僕はこの唱歌群がわりと好きだった。「イムジン河」のキュンとくるあの感じ、である。

高校では、音楽の授業で曲(旋律)を作る課題を出されたことがあった。中学の音楽の時間に北朝鮮の歌ばかり歌っていたせいか、まったく譜面の読み書きが出来ず、でたらめなおたまじゃくしを音楽のノートに書きなぐって提出し、先生を呆れさせたことをよく憶えている。しかしその数ヶ月後、 自分でギターを弾いて姉に歌ってもらったオリジナル曲(詞は課題のものがあった)をカセットテープに録音、旺文社主催の高校生作曲コンクールに送り、見事入賞を果たしたのだった。応募に譜面が必要だったら、はなからアウトだったろう。賞として学校にコンポーネントステレオ一式が寄贈され、自分には図書券だった。嬉しくもなにか理不尽な思いがしたが、音楽の先生にしてもあんなでたらめな譜面を書くやつが賞をとるなんてと理不尽だったことだろう。ちなみにこのときの審査員は「イムジン河」の加藤和彦氏であった。加藤さんには数年前、コンサートで一緒に演奏させていただく機会があり、このときのお礼を言おうかと思ったが、憶えてらっしゃるわけがないので、心の中だけにとどめた。

 

かように音楽の授業は楽しかった。

今は現場が日々授業。今、受けてるのは「PPMコーラス実践」の項。

 

 

 

  ともだちの歌完全版