ハイラム・ブロックのライヴに行ってきた

 

 ギターを弾いてはいるが、ギタリストメインのライヴを見たいとはあまり思わない。ギターは弾くほうが楽しいから。ただ、大村憲司氏だけは別で何度でも生で見たいと思った。音色がたまらなく心地よかったから。彼が亡くなってギタリストのライヴに自ら足を運ぶ回数はがくっと減ったが、見たいと思うギタリストは実はもうひとりいる。ハイラム・ブロックだ。その彼のライヴに行ってきた。

 ブルーノート東京での今回のハイラムは、「ファンキー・パーティー」と題して、JB、スティービー、地味編(変換されたまま)などを日替わりトリビュートする趣向。で、僕の行ったのはアース・ウィンド&ファイヤーDAYだった。

 07/5/26土曜のセカンドステージ、ほぼ満席の客席にハイラム登場。彼の太り様を見て、最初の驚きがきた。体質改善のためにネクター系の飲み物を愛飲して太ったと聞いて大分経つが、肥満は進行形になっていたようだ。それにしてもこの太りかたは大丈夫かと思った。もう見られるのもこれで最後になるのか、とさえ思った。はたして音がでた途端、ハイラムのプレイはというと・・・・いい、やっぱりいい!ただ、ひたすらふっきれてる。気持ちいいぐらいに。腰をつきだしてのクネクネ動きが、TV「ガキのつかい」に出てくる板尾の嫁のようでおもしろい。リズム感のいい肥満体のリズム感は際立つな、と2度目の驚き。さらに恒例の場内一周ギターソロの、ひとつもハズレがない彼のギターがかっとばす「歌」の素晴らしさ、に3度目の大きな驚きがきた。もう、わくわくして僕は満面笑み状態。出す音がひとつひとつ生きている。

 ギタリストのソロプレイは、ストックしたフレーズの順列組み合わせ的な部分がある。だが、経験上、そういうふうに聞こえて(弾いて)しまった途端、ギターの演奏自体はもう「芸」の部分に入ってしまう。そうなると聞いていても(弾いていても)おもしろくない。憲司氏もそうだが、ハイラムの違うところは、そういう組み合わせ云々の前に気持ちが音場をぐっと掴んでしまっているから、ひとつのストーリィーのようにソロが聞こえるところだ。そうするとどうなるかというと演奏側も聞く側も心的にぶれが無くなり、安定して入りこめるのだ。それと彼らは存在として味があるから、見ていて興味深い。派手、地味を超越した「役者」の要素はギター弾きの部分のひとつ外側にあるもの。彼らにギターを弾かせている人格自体が魅力的なのだと思う。

 ただ終盤のアースの一連のカバーはこの日の目玉とはいえ、別になくてもよかった。アースの曲をハイラムのカッティングで聴けると楽しみにしていたのだが、カッティングが映える曲がなく、ボーカルに主体を置いた普通の構成だったから。しかも、アースとは声のキーが合わないようだったし。それにアースメドレーに至るまでの演奏でかなり気力体力がいっていたようで流しているようにも聞こえた。でもでも、とにかく行って良かった!ハイラムはやっぱり何度でも見たい唯一のギタリストだった。

 

ハイラムはこのライヴから約一年後の08年7月に亡くなった。過度の肥満に、心臓が追いつかなくなったのか。ほんとうに惜しい。濃霧の斑尾ジャズフェスでの場内一周ソロを思い出す。デビッド・サンボーンのライヴビデオでの無茶苦茶かっこいい演奏はこれから何度も見るだろう。