隠された記憶(2005年オーストリア)

ヨーロッパのとある住宅街の風景がただ映されている。そのまま数分経って、やおら画面に波がたち、画面が揺れている。つまりこれはビデオの画面で、巻き戻されているのだということが分かる。このオープニングシーンは静かだけれど、とても不安だ。


日常生活でただぼんやりと街角を眺めているという行為は見ている当人の思惑とは別に、見られている側にはかなりの疑心暗鬼を生む。僕自身、こういう経験がある。深夜に帰宅して駐車場に車を停めて出てくると、近くの民家の窓に人影が見えることがある。ぼんやりとした部屋の灯りを背景にした表情がまったく分からない黒い人影はどうやら僕を凝視しているようなのだが、これは実に不気味な瞬間だ。なぜ見る?何を思って?他人をただ見る、という行為には理不尽な怖さがある。


何者かが、家の様子をただビデオで撮影したものを送りつけてくることからこの映画は始まる。幸せそうな平穏な暮らしも、そういった第三者の視線が入り込んでくることで、たやすく壊れてしまう。もっともこの映画でのその視線とは、記憶の奥底に押し込められた家に住む当人の過去の罪悪感が発端となっているのだが。人から受けた恨みというものが、何年も経ってひょっこりと顔を出してきたのだ。こういった潜在意識に苦しめられるのはやっかいだ。鈍感なのは平穏に暮らすためには、ひとつの才能かもしれない。


ビデオを送ったのはいったい誰なのか、この映画は最後まで明らかにしない。驚愕のエンディングとの宣伝文句にあったラストシーンでは終業後の学校から出てくる大勢の生徒たち、出迎えの親たちの中に混ざって、主人公の息子と、犯人と思われる人物の息子が会話している場面がオープニングと同じ手法の固定映像でただ流されていく。会話の内容は聞こえず、恨みの連鎖が暗示されているようなのだが、この時観ている僕はこの映像を観るというより「ビデオを撮影して」いる気にさせられた。撮影したくはないのだけれど。
このラストシーン、日本のホラー「CURE」を思い出した。淡々とした光景の中に在る恐怖。人は怖い。いや、怖いのは人というより人の中に潜む「疑心暗鬼」というべきか。