ベンジャミン・バトン(08年アメリカ)

 

 病床で死を待つヒロインの元へ、赤ん坊になったブラピが看護師に抱っこされてやってくる。おりからのハリケーンにふっとばされてこの病院にたどりついたのだ。年老いたヒロインと彼女に抱かれた赤ちゃんブラピは、そのまま一緒に天国へ・・・とのラストを想像しながら観ていたが、そうではなかった。

 ブラピは、それ以前に亡くなっていたのだ。ヒロインに抱っこされたまま、というのは当たってたが。さて、この赤ん坊として抱っこされて亡くなる、看取るという状態、これが幸せかなのかどうか?赤ん坊は小さいから扱いやすく、結果抱っこして看取ることができて便利なのは間違いない。そして赤ん坊のほどよい重量が、いっそうの親近感を感じさせてくれるかもしれない。でも、年老いた人を見送るのと気持ち的には大差がないのではないかと思った。つまり人生を逆に進んでも別れの気持ちは同じ。

 ブラピとヒロインは40代で実年齢がクロスし、あとは年齢差は離れていく一方になる。そう分かったとき、ブラピは妻娘から去ることを決める。

女は現実は見つめ、男は将来を思う、とは一般的によく言われることだが、この決意にもそのことが現れている。女にしてみれば、経済的にもとりあえずやっていけそうだし、目の前の30手前くらいのブラピは全然愛せる、これから先、どんどん若くなってってもそのときどきの愛し方があろう、現実をひとつずつクリアしていくっきゃない、という考え方。しかし男のほうは、それでは家庭が成り立たない、子供を育てる自信がない、との一方的とも思える決断をして、ただ去っていく。この柔軟性の無い頑なさがどうも納得できなかった。数奇な人生を、すくなくとも妻は受け入れていた。ならば娘にだってそうしてもらう以外にないと思えるが。ピアノを教えてあげたかった、などとあとになって娘宛に手紙を書くくらいなら、実際にピアノを教えてあげて、と思った。どんどん子供っぽくなっていく父親もなかなか素敵に数奇ではないかと思うが、娘に寝小便小僧ぶりはどうしても見せたくなかったのか。 

 しかし、やはり女は現実的にはしっかりしている。ブラピが去っていったあと、新しい好人物そうなダンナを家庭に迎え入れて日常を送っているのだ。そして、このダンナと青年状態のブラピが一度対面するシーンがある。おそらくはダンナはブラピのことは聞かされてはいまい。でも、なんとなく勘が働いて実の父親はこの男前の若者(ブラピ)ではないのか、と察知したと思う。そして死ぬまでなんか心にひっかかったままだったかも。だが、ヒロインは娘には最後に真実を打ち明けても、このダンナには終生語らなかったと思う。ヒロインは、ダンナ、ブラピの両方を愛しても、その愛し方は違うのだ。そして圧倒的に深いところでブラピを思いながら日常を過ごしている。こういうことが出来るのも女性の強さの一面。

 とにかく、この映画はブラピがどんどん若返り、いきいきとしてくるところに惹き付けられる。生徒が帰ったダンス教室で、ひとりダンスのポーズを取るヒロインを陰から見ているところなど、とてもカッコいい。

 またヒロインが事故にあうまでの顛末のシーン。いろんな人物や事柄が関わってというところ、交通事故について、日頃考えてることが完全に映像化されていた。交通事故に限らず、何事にもこうした幾重もの見えない糸のつながりが用意されている。ふりかえってみたら偶然はない。すべてが必然。