パピヨン(73年アメリカ) 

子供のころ出来なくて、大人になって出来るようになったことはいろいろある。車の運転、旅行計画立案及び実行、楽器演奏、整理整頓などなど。逆に子供のころ出来て、大人になって出来なくなったこともある。この映画のあるシーンを見て、ああこれはもう出来ない、と思い知らされた。それは「高いところから飛び降りる」こと、だ。
 
それはこの映画で最もハラハラするシーン、音楽会の夜の脱走劇で起こる。先に脱出したマックイーンとゲイ看護師が刑務所のかなり高い塀の上で、もたもたしているダスティン・ホフマンに声を殺して早く来いと呼ぶ。ホフマンはなんとか塀によじのぼり、二人にしがみつき、さぁ外の世界へ、と塀の向こう側に飛び降りた次の瞬間、不自然にぎゃん!(ex町田康)と飛び跳ねる。着地で足を骨折してしまったのだ。このシーンを子供のころに見ていて、「なんで?!そんなことで骨折する?!」と思ったことを、それから数十年経過した、このたびの映画鑑賞で思い出した。

子供のころ、僕は高いところから飛び降りるのが得意だった。総じて、子供(大概男子)は階段や門、ジャングルジムなど、高いところから飛び降りたがる。「その高いとこ、から飛び降りる」ことを思いつき実行するのが、ひとつの男気の表現なのだと、当時のアホな頭で考えていた。なんせ身軽だから、かなり高いところから飛び降りても、スタッ!って感じで着地できた。しかし、大人になると体が重くなり、足にかなりの負荷がかかるため、着地はスタッ!ではなくドタッ!となり、かなり危険だ。今回、このシーンを観て、実に素直に、それはダスティン・ホフマンも骨折するよな、としみじみ共感したところで、ゆるい雷に打たれたように、子供のころのなんで?の感想を思い出した次第だ。

というわけで、子供のころから、もう何回見てるか分からないこの映画だが、とにかく圧倒的なテンポの良さで観る者をぐいぐい引き込んでいく。なんといってもマックイーンがすごい。表情、歩き方や身のくねらせ方、もうすべてがこの主人公パピヨンそのもので演技という範疇を超えている。鬼気迫る牢獄シーンなど、レディ~アクション!でやってるとはとても思えない。少なくとも半年は牢屋で寝起きしてるはず。独房でいきなり久々の太陽光に当たり、目やにだらけで驚く表情の素晴らしいこと!

パピヨン役に当初キャスティングされていたのはチャールズ・ブロンソンだったらしいが、マックイーンでほんとうに良かった!登場人物もバラエティ豊かというか半端ないキャラが揃う。冷血所長、人狩り族、ゲイの看守、同じく看護師、伝染病に冒された村長、走り方に妙な特徴があるスペイン人の罪人、上半身裸の献身的女性、不気味な修道女。こういった面々を向こうに、マックイーンは多くは裏切られ、たまに心を通わせて、ハラハラドキドキの脱出劇を繰り広げる。

印象的なのは、独房でマックイーンが見る夢。砂漠に立つ赤マントの裁判官は、無実を主張するマックイーンに対し、「おまえはすでに罪を犯している、人生を無駄にした罪を」と断罪。何を無駄に思うかは人それぞれだが、確かにそれが一番の罪だろう、自分にとっての。あと、海べりの種族に一命を助けられ、しばらくは楽園での生活を送っていたマックイーンがある日目覚めると、誰もいなくなっていた、というしーんとしたシーン。幸せは儚いのだ。この楽園での出来事は、あるいはすべてが夢の中のことだったのかも。

脱獄に数度失敗して、結局サメと荒波が取りまく孤島送りになり、そこで再会するマックイーンとダスティン・ホフマン。質素ながら海を見渡す家での自給自足の生活、友だちもいれば各々名前のついた家畜たちもいる。団塊世代くらいの年頃のふたりだから、それも悪くないのではと思うのだが、マックイーンはさにあらず。あくまで自由を得んと、七つ目の波が外洋に向かうという観察を経て、荒海に身を投じる。海に浮かぶマックイーンを見つめ、微笑み頷くホフマン。ホフマン用のやしの実ボートは断崖絶壁に残され、よろめき去っていくホフマンの後ろ姿に、こんどは観ている僕が微笑み頷く。


最早、飛び降りることは困難となってしまった僕。生きるとは何か、人生を無駄にしてないか、哀愁のエンディングテーマが流れる中、やしの実ボート上のちょっと辛そうな姿勢のマックイーンを、自室の無印のクッションにもたれ、彼とほぼ同じ姿勢で観ながら自問したのだった。