シャッター・アイランド (09年アメリカ)

   ヒトの脳が日々相手にしているのは大きく三つある。現実・記憶・妄想だ。脳は健気にも「これは現実ね、で、これは記憶、これは妄想だから取り扱いよろしく」とちゃんと分別してくれて、それで一応はやっていけてる。ただそれは起きてる間の話で、夢を見ているときはどうかというとこれらすべての垣根がなくなる。記憶も妄想もなんでもこい、それらがごっちゃまぜになるのが、夢というものの現実(本質)だ。とくに高熱にうなされているときなんかに見る夢の中では、今まで知り合った人たちがとんでもない役柄でもって登場し、一大ドラマ(時には寸劇程度)を展開することがある。高熱に限らず、この映画の主人公みたくすごいトラウマを受けたときもそうなるのであろう。それにしても、あまり親しくもない、思い出したりもしない人がいきなりでてきたりするから夢は不思議だ。

 宣伝文句に「あなたはいつこの謎がわかりますか?」という挑戦的なキャッチをもってきたこの映画。僕の場合、それはクライマックス前。勘のいい人なら、主人公が施設内に入る直前にでくわす農作業をしていた入院患者と、行方不明になっていて現れた女性を比べ見た時点で気づくであろう。あるいは垂直に近いガケを主人公が登り降りするところとか。
それにしてもこの混沌、ディカプリオの演技にひっぱられた。現実・記憶・妄想に見事なまでにこんがらがった人というのを見せてくれた。なかでも手をぶるぶる震わせ呂律の回らない演技が気に入った。

 この映画を観ていてたまに思うあることをまた思った。
それは、夢を見ていてこれは夢と違うか?と疑うことがあるか、ということ。これは僕はない。日頃から、なにか意外な出来事がおこった都度、「これは夢と違うか?」と思う習慣をつけたらどうなるかとも思うが、それも無駄な気がする。だいたいが、これ夢違うか、と思いながら見る夢もつまらなそう。
それともうひとつ、夢に自分の姿が出てくるか、ということ。つまりは客観的視点で夢を見れるかということなのだが、これも僕の場合はない。しかしこの映画では、すべてのシーンが客観的視点で、だから、謎解きしずらいのだ。この謎解きこそがこの映画の大きな仕掛けであるのだが、その謎解きが判明したびっくり感より、人はすべからく日々、現実・記憶・妄想に翻弄されてるな~という共有感というかお疲れさん感をエンドロールを眺めつつ味わえたのだった。